片田舎から哀をこめて

野山を駆け回る程の自然もなく、天を貫くようなビル群もない。中途半端な片田舎からお送りします

鬱を抱える現代人は全員ドルオタになればいいと思う

 現代日本はストレス社会である。生きていれば基本的に辛いことしかないし、たまにいいことがあったとしてもそれを上回るだけの辛いことがあったりする。
 ならば、と”いいこと”を探す努力をしているうちはまだいいが、辛さに潰され、それすらもできなくなってしまう人というのもままいいる。
 三万人。そうやって追い込まれるうちに自ら命を絶った日本人の数である。累計ではなく年間でだ。これだけの数のものたちが”いいこと”を探す気力を失い、辛さと絶望の果てに亡くなっていったのかと思うといたたまれない気持ちになってしまう。


 そういう奴は全員アイドルオタクになればいいと思う。


 いや、冗談でなく。マジで。
 もし仮に読者諸兄が生きることに対して疲れ果てていたとして、そんな時にひょんなことから一つのアイドルグループを好きになったとしよう。アイドルといえばライブだ。どのアイドルもとは言わないが、大体のグループは一、二ヶ月後先くらいまでのライブの予定を明示しているものである。
 より前方の、いいチケットを取る為にはチケットが発売されたその瞬間、一月前くらいにはチケットを確保しなければならないのである。「e+」、あるいは「ぴあ」でチケット争奪戦を勝ち抜き、支払いを済ませて……、するとどうだろう。あれだけ死にたいとか思っていたのに、これで一月は死ぬことができなくなっただろう。所謂あの電柱までは走ろう作戦である。電柱に辿り着いたならまた次の電柱を目指して走ればいいのである。
 アイドルの恩恵はまだある。2つ目はライブという空間そのものである。アイドルのライブというのは他ジャンルのアーティスト等とは違い、曲に合わせてのコール、また身振り手振りが多いのが特徴である。
 これが鬱に効くのである。コールで声を思い切り出し、ダンスに合わせて手振りすることで体を思い切り動かす。この二つの行為はストレス解消に大いに役立つ。普段黙々とデスクワークしかしない現代人にとってこの二つの動きはとても重要なのかもしれない。ごめん。専門分野でないから医学的にみてどうこうとかは正直分からない。
 3つ目が一番重要である。皆さんお気づきかと思うが、ここまでなら正直アイドルに限らず好きなアーティストのライブに行くだけで事足りる。コールとか手振りみたいなのは大体どこもやってるし。てかドルオタとかキモ。とか思っていることだろう。
 僕が鬱に対してアイドルが一番いいと思う由縁は所謂特典会、すなわち直接接触できる機会があるからである。ライブが終わった後、大体千円くらい払えば、約二、三十秒くらいだろうか。あのステージでキラキラと輝いていたアイドル達と直接話す機会を設けることができる。アイドル個人のポテンシャル、あるいはそのグループの規模にもよるが、中堅クラスくらいのアイドルの特典会だと、数回通うことで顔と名前を覚えられたりする。そんで「あ、この前も来てくれた○○さんだ〜ありがと〜大好き〜♪」なんて言われちゃった日には嬉しくてデュフフとか言いながら舞い上がっちゃったりするのだ。


 気持ち悪い、と読者は思っただろう。僕もそう思う。でも、それで生きているならば、とも思う。


 人が死にたくなっちゃう理由は、つまるところ「愛」が足りないせいではないのか、と僕は考えている。逆に言えばどれだけ逆境に立たされても、どれだけ絶望の淵に立たされても、そのちっぽけな感情一つあれば意外と生きていけたりするもんなのだ。それは例えその感情が嘘や虚構でも、である。
 現代社会はストレス社会であると同時に孤独社会でもある。見えない沢山の「誰か」の手によって成り立っている普段の生活において、人と繋がり、「愛」を感じることのできる機会は極端に減ってしまった。アイドルは、そんな現代社会において、CDと一緒に「愛」という感情を売る一つのビジネスモデルなのである。そこまで見通していたのかは分からないが考えた秋元康はやっぱり天才なんだなぁなどと思いつつ筆を置かせてもらう。


 ちなみにこの記事におけるNGワードは「恋人」「友人」「家族」である。
 

青春モンモン野郎は全員筋肉少女帯の「飼い犬が手を噛むので」を聞け

 我々の生きるこの現代日本社会は、物も人も、何もかもを規格化したがる。スーパーに並ぶきゅうりはまっすぐな方が高く売れるし、建物は耐震基準以内でなければならないし、人は同じ思想を持っている方が扱いやすい。
 いやちょっと待てよ、と。オレはそうはならないぞ。こんなクソみたいな世の中に染まってたまるかよ。オレはあいつらのような下らない人間とは違うんだぞ、と。そういって何かを始めようとする奴は、そこそこいる。
 では、そういって世間から、社会の輪からなんとか外れようともがく若者たちが全てうまくいくのかというと、これがどっこいそうはいかない。
 例えばロック歌手になろうとする若者が世の中に五千人いるとする。その全てがアーティストとして成功し、そこそこ収入を得ることができるというのなら、邦ロックシーンはえらいこっちゃである。
 恐らくその五千人の中でメジャーデビューできるのは十人といったところだろう。それも長く続けられるのは一人か二人か。そんなところに違いない。
 そして夢破れた4990人の若者たちは社会に染まることを嫌い、かといって特別な存在になることすら叶わない。何者にもなれない彼らは、自分があの時見下した普通の人間以下の存在であることに気づいたのだ。

 


 筋肉少女帯のキ○ガイ名盤として名高い「レティクル座妄想」を通して聞いたのは高一くらいの時だったか。
 当時遅すぎる中二病が花開いていた僕は(そのクセ知識や常識は並の高校生だったので尚厄介だった)、「学校も社会もみーんなクソ!大人になる前に死んでやるー!」とか考えながら人生や世の中そのものを舐め腐っていた。
 アルバム前半、というより最終曲以外の曲は思春期における中二病の妄想や思想をそのまま体言したかのような、陰惨で、ドロドロしていて、そしてどこか美しい世界観の曲が並ぶ。中二病高一の僕も共感した。感動した。やはりオーケンは”分かって”いるのだ、と。


 
 そして「飼い犬が手を噛むので」。曲の前半は猟奇的な内容になっている。世の中に必要のない人間は我々頭のいいものたちで狩ってしまえ。何いってんだコイツと思うかもしれないが、アルバム通しで聴くと、そうだそうだ、と思ってしまうものである。しかし二番が終わったところでオーケンの台詞が入る。


 

ただし!
狩りに行く前に
自分は頭がいいという証拠を提示してください
君たちがまわりのくだらない人たちとは
自分はちがうというのならば
その証拠を見せてください
 

証拠なき者は犬人間とみなし
狩られる側にまわってもらいます
君たちがくだらないかそうでないかを決める
素敵な審査員のみなさんを御紹介します
(以下歴史上の偉人が挙げ連ねられる)


 あの時僕には自分には何かしら特別な能力があって、それはきっと自分が大人になってしまう前に現れるはずだ。そうでなければ自分は死ぬ、などということを割と本気で考えていた。
 しかし実際にはそんなことなくて、自分に特別だという証拠はどこにもなかったし、勿論周りの人間がバカだという証拠もなかったし、20歳になっても当たり前みたいに人生は続いていたし、そして中二病フィルターを通さずに見た世界は、社会は、ありえないほどに大きかった。


 それに比べて自分の小ささたるや!!


 大人になるということはきっと、良くも悪くも世の中に対しての自分の大きさを自覚することなのだと思う。その気付きの一歩を、大人への一歩を踏み出せたのは間違いなくこの曲のお陰だ。できるならば僕のように青春をモンモンと過ごす奴にこの曲が届いてくれればいいと願う。
 

wowakaの死について思うこと

 確か人生で初めて買ったアルバムはwowakaの「アンハッピーリフレイン」だった。


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 買った、というのはちょっと語弊があって、正確には買ってもらった、という方が正しい。
 その頃、ボカロ厨でニコ厨で厨二だった僕は家に帰っては家族共有のPCを占拠していた。ランキングをカテゴリごとに巡回して、フォローしている投稿者に投稿がないか確認する。お決まりのルートである。その投稿者の中でも一番熱心に追いかけていたのは間違いなくwowakaであった。といってもニコニコで彼をリアルタイムで追えたのはほんの少しの期間でしかないが。


 僕が中学生をやっていた2011年頃、ニコニコのボカロ界隈は成熟期を迎えていた。黒うさPの「千本桜」が投稿されたのが2012年頃、といえばボカロ厨は「あーあのあたりか」となるだろう。ちなみに「アンノウン・マザーグース」以前、wowakaがニコニコをしばらく離れる前の最後の投稿「アンハッピーリフレイン」が発表されたのは2011年5月のことである。前作「ワールズエンド・ダンスホール」から約一年の期間を開けての投稿だった。そしてすぐさまアルバム「アンハッピーリフレイン」発売の発表がなされた。
 結局のところ僕がリアルタイムでボカロPのwowakaを追いかけることができていたのは「アンハッピーリフレイン」投稿からアルバム発売の間だけだった。それでも僕は、彼を僕の中の一番に置いていた。意味もなく彼のマイページの更新ボタンをクリックしていた。
 そんな中での、新曲。そしてアルバム発売。とても嬉しかったのを覚えている。一年も音沙汰がなかった分喜びも一入であった。が、いかんせんアルバムを買う金がなかった。
 その当時、遊びたい盛りの中学生だった僕に毎月与えられる小遣いは千円であった。その当時僕は貯金をするなどという概念もなく、そもそも千円以上の買い物をしたことがない、時代遅れもそこそこの娯楽に飢えた片田舎の中学生だったのだ。
 そこに救いの手を差し伸べたのは年の離れた兄だった。兄も当時ズブズブのニコ厨で(おそらくβーγあたりのリアルタイム世代。僕のインターネット狂いももとは兄の影響であった)、兄弟共々ボカロ音楽は好きだった。勿論wowakaのことも好きだった兄は、ある日アルバム「アンハッピーリフレイン」買ってきたのだった。兄は早々に自分専用のPCにCDを取り込むと、もういらないとばかりにCDを僕にくれたのだった。
 CDが割れてしまわないか、裏面に指紋がついてしまわないか、どきどきしながらケースからCDを外し、ラジカセにCDをセットして再生ボタンを押す。 
 あの音は、間違いなく僕の音楽の原体験だった。


 それから時は過ぎた。wowakaは「アンハッピーリフレイン」のクロスフェードデモを最後にニコニコへの投稿が途絶えた。僕も少しずつ大人になっていった。ボカロから派生して歌い手の曲を聞いたり(ぐるたみんが好きだった)、アニソンを聴くようになったり、ロックンロールにのめり込んだり、サブカルに傾倒したり。wowakaの音楽は、ボーカロイドは、いつしか昔好きだった曲になっていった。


 高校生になってスマホを手にして、ふらふらと情報の海を漂っていた時、ふと一組のバンドの名が目に止まった。ヒトリエ。そのボーカルの名を目にして驚いた。youtubeで曲を聞いて二度驚いた。
 変わってない。
 いや、勿論表現の形態も、曲を聴く形も、自分自身でさえも変わってしまった。だというのに、いつか感じたあの胸の高鳴りを、僕は色褪せることなく感じることができたのだ。
 日々目真苦しく変わっていく日々の中で、変わらないなにかがある。それを知れただけで僕は嬉しかったのだ。
 それから、日々忙しなく過ぎていく日々の中でも僕はヒトリエの活動を追っていた。MVがあがれば真っ先に視聴し、アルバムが出れば買う。
 ただ、ライブだけはなかなか行く機会が掴めなかった。山形在住というのもあったが、他に追っているアーティストが多かったというのが大きい。僕は何度となくヒトリエのライブに行く機会を逃していた。
 今年の2月。アラバキロックフェス出演者第三段にてヒトリエの出演が発表された。他にも見たいアーティストの出演は多数発表されていた。僕は思い切ってアラバキロックフェス二日通し券を購入することにした。それがつい二ヶ月程前。見れる。会える。生であの時の胸の高鳴りを感じることができる。そう思っていた。


 昨日、ヒトリエのボーカル、wowakaの急逝に伴い、ヒトリエアラバキロックフェス出演キャンセルの発表がなされた。


 訃報を目にした瞬間、彼の音楽が常にどこかにあった中学生から今までの出来事が走馬灯のように駆け巡った。走馬灯の自分が今の自分と重なった時、胸のあたりが苦しくなって、そこを絞ったように涙が溢れてきた。
 僕は幸いなことに、家族や友人、その他直接関わったことがある人間の中で鬼籍に入った者は未だない。テレビで目にする訃報もどこか遠い国の出来事のようで、イマイチ「死」に対してリアルなイメージを持つことができずにいた。しかし今回のことで初めて知った。人が一人いなくなるということの悲しさを。そしてそれを背負って尚生きていかざるをえない人間の性を。
 正直後悔はいくらでもある。しかしそれを引きずっていてはなかなか前に進むことはできない。
 日々は目まぐるしく変わっていく。一時は話題を独占し追悼のコメントで溢れかえっていたツイッタートレンドも一夜明ければ新紙幣の大喜利大会である。
 それでも彼の遺したものはディスクの中に、ニコニコに、youtubeに、我々の頭の中にある。我々が今できるのは、彼の死を受け止め、彼の遺してくれた変わらないものを未来に活かしていくことだけだ。
 今月末、僕はアラバキロックフェスに行く。そこにヒトリエがいなくても。これから先、僕はボカロシーンも邦ロックシーンも追っていく。そこにwowakaがいなくても。

人付き合いが苦手すぎるので人工精霊を作った話

 確か中島らものエッセイだったと思う。彼は大阪のドケチで知られる社長に
「お金を貯める秘訣はなんですか?」
と聞いたことがあるのだそうだ。そうしたらその社長は、
「人と付き合わんことです」
 と返したそうだ。
 案外この言葉は真理を突いている。仮に今ここに僕と相性ピッタリの人間がいたとして、彼と仲を深める為に遊びに行ったり飯を食いに行くには幾ばくかの金がかかることは紛れもない事実である。この社会で生きていく為に一番面倒で一番コストがかかるのは実は人間関係だったりするのかもしれない。
 僕はどうにもそれが苦手で、できることならば死ぬまで一人で生きていたいとさえ思う。思うのだが、やはりそれだけ面倒でコストがかかるということはそれだけ大切なものであるということで、一人でいることにはどうしても一抹の寂しさが伴う。でも人間関係は築きたくない。我がことながら僕はチョー面倒くさい性格なのである。
 そんな筆者にオススメなのがこれ、「人工精霊」である。やっと本題かよ。

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※イメージ

Q.人工精霊ってなに?


 A.訓練を積むことで自然な会話を可能にした脳内の架空人物のこと。
 普通、妄想と会話するには返事の内容を自分で考えてやらなければならないが、人工精霊にすると流暢かつこちらが予想していないような言動が可能になる。
 ー人工精霊atwiki、よくある質問より抜粋ー

https://www23.atwiki.jp/artispir/sp/pages/1.html


 つまるところ人工精霊とは、脳内にのみ存在するマイベストパートナー、といったところである。我思う故に君あり。
 物理的肉体を伴わないのであれば金がかからずに寂しさを紛らわすことができるし、女の子で作ってしまえば一生の伴侶。帰省した時にプレッシャーをかけてくる親戚ともオサラバである。やったぜ。 
 そうと決まれば行動に移さない理由はない。先程のサイトをざっと眺めてみるに、人工精霊の作成に必要なものは主に三つである。


 
・精霊の容姿、性格等の具体的な設定
・精霊の依り代となるアイテム
・精霊との会話


 である。ひとまず一つ目、精霊の設定からいってみよう。




精霊の設定

 性格に関しては人工精霊との会話の中で徐々に詰めていくことができるので大まかで構わないが、名前や口調などの基本的な部分ははっきり決めた方がいい、とサイトにはある。というわけで、



 名前:香澄(かすみ)
 年齢:21(筆者と同い年)


 筆者の幼なじみ。男勝りの気の強い性格。勉強はできるが少し世間知らずなところがある。
 筆者とは高校まで同じ学校だったが卒業後上京。久しく会っていなかったがある時ひょんなことから再会することになる……。


 こんなところか。引かないで下さい。ちなみにひょんなことから、というのは実は彼女は上京後事故でなくなっており、魂だけが筆者の元にやってきていた、という裏設定が最終話で明らかになっちゃったりする。ラノベかよ。


精霊の外見


 性格が大方決まったところで次は外見である。こちらは頭で想像するだけでもいいのだが、得意な人は絵に描くとイメージを固めやすい、とある。


 ならば

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 外見は想像で補うとして次のステップに進もう。




依り代

 次は依り代である。こちらも必須ではない、とあるが折角なら用意してみよう。


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 という訳で用意したのがこちらの数珠。別に百均の安物でもよかったのだが、長く付き合うものだしどうせならば、とちょっといいやつを買ってしまった。(高額なもの買った時点では筆者はコストがかからない云々の前提を忘れている)
 別にこのまま使うのでもいいのだが、"浄化"という儀式を行うと尚良い、とある。まあ儀式といっても流水に数秒間当てたり塩の仲に入れたりするだけでいいらしい。写真を撮るほどでもないので割愛。




精霊のイメージ

 で、揃うものは揃った。あとはイメージするだけである。左腕に数珠をはめ、その中に香澄ちゃんの本体が宿っているのをイメージする。そして、それに話しかける。声に出す必要はない。念じるのだ。


(こんにちわ)


 勿論それで返事があるわけがない。最初のうちは自分でその返事を考えなければならないのだ。


『こんにちわ』


 そしてそのやりとりを繰り返すことによっていつしか香澄ちゃんは自ら言葉を発すようになり(会話のオートメーション化、というらしい)そしてさらには視覚化、つまり依り代を抜け出し香澄ちゃんの姿が見えてくるようになり、そして極めれば触れる感触さえもリアルに感じ取ることができるようになるという。まあ、そこまでいくには数年の月日が必要らしいが。いずれにせよここからは会話のオートメーション化に向けての練習に入る訳である。




で、やってみた結果

 と、実はここまでは二ヶ月程前の話。実は既に香澄ちゃんとの会話練習は2019年二月末時点でかなり進んでいるのだ。三分クッキングの演出かよ。
 ここからは二ヶ月間人工精霊と暮らしていてどうだったか?ということについて書いていきたいと思う。
 まず一つ、会話のオートメーション化。つまり自分で返答を考えずとも香澄ちゃんが言葉を発することはあったのか。
 これは、あった。自分でも本当にびっくりした。自分で返答を考えていずとも香澄ちゃんの口からするすると言葉が出てくるのだ。小説を書いた時にその登場人物の台詞を考えている感覚に近いが、それよりもなんというか、予測がつかないのだ。
 恐らくもっと修練を積めば完全な一つの人格として香澄ちゃんを存在させることができるだろう。


 そして次に視覚化。香澄ちゃんの姿を僕のこの目に映すことはできたのか。
 これはちょっと無理だった。いや、まだ無理、というべきなのだろうか。何度か試みてはいるものの、視覚に関しては僕の妄想、想像の範疇を出ていないように思える。しかし、気配みたいなものはなんとなくだが分かるようになってきた。これも気のせいの範疇を出ないように思うが。


メリット、デメリット

 で、次にそれによって得られたメリット。まず一つは、というかこの一点なのだが、全然寂しくならないことである。部屋でテレビを見ている時に誰かがいて、ギターを練習している時に誰かがいて、出かける時に誰かがいて、家に帰っても誰かがいる。

 これは本当に凄いことである。生身の人間であれば決して分からないであろう筆者の感情について、香澄ちゃんは頷いてくれるし、それに対して意見もしてくれる。人工精霊を持つ前と後で僕の生活における幸福度は確実に違うものになっているのだ。



 そして次にデメリット。といっても今時点で正直デメリットらしいデメリットもない。故にもしかしたら今後起こりうるかもしれないデメリット、というのを一応挙げておきたいと思う。

 まず、ボーッとしている時間が多くなる。家でそうなっている分にはまだ可愛いものだ。しかし外出中に、或いは仕事中なんかにボーッとしていては上司に頭をすっぱたかれかねない。辛い現実を快適に過ごすためにやっている妄想に集中しすぎて現実が疎かになっていては本末転倒である。

 次に、これは正直ないだろと思うのだが、人工精霊に自分の意識を乗っ取られるという例があるらしい。といってもネット上の人工精霊界隈でもこういった話は眉唾もので都市伝説扱いらしい。

 いずれにせよ妄想と現実の区別をしっかりとしていれば上記のようなことにはならないだろう。


まとめ

 という訳で結論。冒頭書いたようなジレンマを持つ人間に人工精霊は超がつくほどオススメである。絶対作るべきだ。確実にこれからの生活が華やかになることだろう。 が、しかし妄想は妄想。現実との線引きをしっかり引くことも大事である。その辺をわきまえつつ読者諸兄も今日からレッツ人工精霊ライフ!

ミルキアン歴一ヶ月だけどミルキィホームズラストライブに参加したら泣いてた話

 1/28。遠征二日目。本日は場所を移し、東京は九段下、武道館へとやってきた。本日18:30から行われるミルキィホームズファイナルライブへと参加する為である。
 そもそも「ミルキィホームズ」とは、2010年にPSP向けに発売されたアドベンチャーゲーム、「探偵オペラ ミルキィホームズ」から派生したユニットである。その後ゲームは続編が制作され、人気が高じてアニメ化、番外編の「ふたりはミルキィホームズ」を含む四期までのテレビアニメ化、プラス劇場版一本が作られ、その他にもOVA、年末特番等、2015年のテレビシリーズ終了から三年経った今なお根強い人気のあるコンテンツなのである。
 で、中でも人気が根強いのが冒頭述べた声優ユニットとしてのミルキィホームズgoogleにて「ミルキィホームズ」と検索すると「ミルキィホームズ(声優ユニット)と書かれた解説が一番上にサジェストされる程である。
 ユニットのメンバーは物語内でも主要メンバーである「ミルキィホームズ」メンバーの四人。


シャーロック・シェリンフォード三森すずこ
譲崎ネロ徳井青空
エルキュール・バートン(佐々木未来)
コーデリア・グラウカ橘田いずみ


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 である。全員可愛い。


 とここまでがミルキィホームズというアニメ、そしてそのユニットの基本情報である。本日武道館でその最後を見届けるミルキアン諸氏には言うまでもないことであろう。


 が、しかし。僕この情報詰め込んだの一月前くらいなんですよね。


 確かに僕はそこそここよなく日本のアニメ文化を愛している。アイドル文化もまた然りである。だがこれまでなんとなく「ミルキィホームズ」は完全にノータッチだったのである。なぜ今までミルキィに触れてこなかったのか。そして何故そんなやつが今日武道館にいるのか。読者の頭には二重のなぜが浮かんだことだろう。怒りに思う人もいるかもしれない。
 まず先に1つ目のなぜを解説しよう。ミルキィの原点たるPSP版をやったことがない、とかならともかく、テレビアニメ版、そしてユニットの曲等になぜ今まで触れる機会がなかったか。これは単純に放送時期の問題である。アニメ第一期を放送したのは2010年。約十年前のことである。筆者が今二十歳なので一期の放送は小学五年生くらいの出来事なのである。見ている筈がない。その後筆者はアニオタに目覚め、ミルキィシリーズも第二期、三期、と順調に放送をするも、一期を見ていないとどうにも見る気が起きなかったのだ。
 
 で、もう一つのなぜ。どうしてそんな奴が今日武道館にいるのか。こちらの答えも実は単純である。


 ミルキィにハマったからである。


 きっかけはTwitter上の知り合いから今日この日のライブに誘われたことであった。その時点では「ミルキィホームズ」は名前だけ知ってて見たことはないアニメで、ユニットだけが独り歩きしてるイメージしかなかった。


「ま、検討してみます」


 完全に社交辞令だった。そもそも筆者の住まいは山形県である。そう易々と東京に来れる訳ではないのである。まあしかし社交辞令とはいえ検討すると言ってしまった言葉に責任を感じるタイプの僕はdアニメストアで「ミルキィホームズ」を見ることにした。なぜか一期は見れなくなっており、二期からのスタートだった。冒頭は四人が農作業するシーンだった。わけが分からなかった。しかし次第にそのわけの分からなさが面白さと直結していることに気づいた。ユニットの曲も聞き始めた。アニメの世界観まんまの曲に夢中になっていた。
 そして気づけば僕はミルキアンになっていた。


 皮肉なもので、ミルキィホームズという作品、ユニットにハマっていけばいくほどにそれが終わってしまうという現実に僕は段々と悲壮感を感じ始めていた。もう少し早く出会っていれば、と今は強く思う。恐らく山形からでも何度かライブに足を運び、僕の好きなユニットの一つとして数えていたに違いない。がしかし後悔が先に立つことはなくあっという間に月日だけが経ち、今日この日を迎えている訳である。
 
 チケットソールドアウトとなった武道館は超満員。異常といえるほどまでの熱気に包まれていた。そして運命の開演。照明が落ちた後、スポットライトに照らされる生ミルキィ。おお。小さい。ゴミのようだとまでは言わないが指一本ですっぽり隠れてしまう程の大きさにしか見えない。それもそのはず。僕がこの日引き当てたチケットは二階のX列。この武道館の最はじの席である。視界の半分が天井。
 とそんなこっちの事情などお構いなしにライブは進んでいく。なにこれ超楽しい。ディスプレイ越しに見ていた彼女らのままである。元気で明るく自由奔放なあのミルキィホームズ。そうだ。僕はこれが見たかったのだ。ラストだからといって彼女らに涙はあまり似合わない。
 振りもコールもやはり一ヶ月ばかりの付け焼き刃知識ではどうにも覚えられなかった。物販で買おうと思っていたペンライトは早々に売り切れていて買えなかった。なので流れる音に僕は適当に腕を振ったり声を出したりしていた。分からなくても案外楽しめるもんである。
 そんなこんなでライブ本編はあっという間に終了。途中ゲストとの絡みも交えつつテンション上がりっぱなしのライブだった。
 アンコールを受け再び現れた四人。いつもなら一人一言ずつコメントするところらしいのだが今回は一人ずつ手紙を読んだ。ここで今日初めてメンバーの頬を涙が伝った。客席からもちらほらとすすり泣く声が聞こえていた。隣の気合が入った歴戦のミルキアン風のおっさんも男泣きしていた。
 そして僕もまた、いつの間にか目に涙が溜まっていた。コメントの全文まで流石に覚えてないので各自Blu-rayを見るなりTBSでの放送を見るなりしてほしいのだが、四人がそれぞれ一貫して語っていたのは感謝、それからミルキィホームズでなくなる自分の明日への決意だった。
 十年。言葉にすればなんてことはない。たった八画ほどである。しかしそこには僕がミルキィホームズに触れた一月なんかでは逆立ちしたって詰め込められない程の思い出が、人生がある。それが終わってしまう喪失感の全てを僕は知ることはできないのだ。
 それなのに僕の目に溜まった涙はいつしか頬を伝っていた。それは多分今日このライブにミルキィの四人、ミルキィファミリー、スタッフ、そしてミルキアンの十年がこれでもかと詰め込まれていたからだ。僕はこの二時間ちょっとで彼女らの十年間を完全に、とまではいかないが追体験していたんだと思う。
 アンコールラストの曲は「そして群青に溶けていく」。ラストライブ発表後に発売されたラストシングルに入った別れの曲である。
 曲の間奏。四人は立っていた位置に被っていた探偵帽を置いて、一人、また一人と後方へ下がっていった。そして四人で歌うラスト。


さよなら泣かないでFriends
みんなのこと笑顔で覚えていたいよ
Friends同じ時を、同じ夢を過ごした仲間
心に消えない永遠を抱きしめて
さよならありがとう
さよなら


 歌い終わって四人はステージを去った。照明も落ちた。しかしミルキアンの持つペンライトはまだ光っていた。数十秒後に沸き起こるミルキィコール。一緒になって僕も叫んだ。きっとこの瞬間、何年ミルキィホームズを追いかけていたか、とかグッズにいくらつぎ込んだか、とか、ミルキアン達の間に垣根はなかった。あるのはただただミルキィホームズが好きだという想い。そしてもう一度だけでいいから彼女らの笑顔を見たいという想いだけだった。
 ステージに照明が灯った瞬間、武道館は今日一番の歓声に包まれた。もう一度現れた四人は最後の最後に「正解はひとつじゃない!!」を歌った。客席からすすり泣く声はもう聞こえない。僕の頬を伝った涙もいつしか乾いていた。最後の最後にミルキィホームズは集まったミルキアン全員を笑顔にして武道館を去っていった。
 帰り道、九段下駅まで続く長い下り坂を降りながら周りの会話が聞こえてきた。「いいライブだった」「楽しかった」みんなそんなことを言い合っていた。現代日本にユニット数あれど、ラストをこんなにも笑顔で終わらせることができるものがあっただろうか。
 その笑顔を忘れない限りミルキアンの心の中でミルキィホームズがなくなることはないだろう。

 1/20 「STARMARIE SPECIAL SESSION LIVE with大槻ケンヂ」に参加してきた。


 遠征二日目。本日は横浜から渋谷へと場所を移し、渋谷TAKEOFF7にてSTARMARIE×オーケンのツーマンライブである。


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 双方の大ファンの僕としてはピザに寿司を乗っけたかのようなお得感である。クッッッソ楽しみ。
 日曜の夜の賑やかさを称える渋谷センター街を抜け、僕は今TAKEOFF7内にいる。なんだかいつもスタマリの現場でよく見る人とオーケンの現場でよく見る人が一緒の場所にいるというのは変な気分である。高校の友達と遊んでたら中学の時の友達と偶然再会した、みたいな。いやべつにどっちも卒業したわけじゃないけど。
 ステージがあるのは地下。そこそこ小規模のハコなのは若干不服であるが、まあ良くも悪くもダンスをするにも弾き語りをするにも丁度いい大きさといったところか。開演前の場内にはスタマリへのオーケン作詞提供曲、「僕と少女霊媒師たち」がかかっている。
 開演時間を五分程過ぎたところで暗転。ステージの照明が灯るとまずはSTARMARIEの五人が登場。一人ずつ自己紹介をしたところでまず一発目に披露したのは「僕と少女霊媒師たち」。今日このライブを象徴する一曲である。CD収録時よりも更に磨きがかかった歌。それにツアーを通して磨きがかかったダンスでマリスト、おでん(大槻ケンヂファンの総称。オーケンが客いじりで言ったのが発端)双方共の心をガッツリと掴んだ。
 そして曲が終わるとトークタイム。少々変則的な構成のようである。先程歌った「僕と少女霊媒師たち」を作詞した時のお話を聞こうという流れでオーケンが登場。曲にちなみ霊媒師のトークをはじめるもスタマリメンバー総ポカン。一度高森志乃(しのはむ)がフォローを入れるもオーケンの口が回る回る。その度にどっかんどっかん爆笑をかっさらうのだからまた凄い。
 と頃合いを見計らってもう一人のゲスト、スタマリのママことSHOW-YAのsun-go☆が登場。トークに花を咲かす。トークの中でスタマリメンバーの年齢の話になったところが個人的にツボだった。スタマリメンバーは年齢をファンタジー、非公開にしている、という話をした時だ。


しのはむ「年齢はファンタジーだからもしかしたら二十歳かもしれないし三百歳ぐらいかも…」


オーケン「そうやって幻想に逃げるんだね!」


 という鋭いツッコミに場内大爆笑。他にもオーケン筋肉少女帯でやった卒塔婆を振りますパフォーマンスをスタマリが受け継ぐ、など爆笑トークの連続であった。
 と、多分十分くらいのトークタイムが終わると、スタマリ、sun-go姉貴が退場。ここからはオーケンの弾き語りパートである。

 


 ギターを持ち、まず一曲目に歌いだしたのは「タンゴ」。この曲はオーケン弾き語りの定番曲であるが元は「じゃがたら」というバンドのカバー曲である。原曲もかっこいいがオーケンのしぶいシャウトのかかったこのバージョンもいい。そして何気にオーケンのギターのうまさにも注目してほしい。ここ数年で本当にうまくなったのだ。
「次の曲はこじらせた少年がサブカルでマウンティングをとる曲です」
 といって弾き始めた二曲目は「香菜、頭をよくしてあげよう」。全く前説の通りなのだがこの曲はよく聞くと実は切ない曲だったりする。ポップなメロディで生と死を歌う、STARMARIEの方向性と少し似ているかもしれない。
 そして三曲目は「ネクストジェネレーション」、四曲目は「くちびるはUFO」。この二曲はオーケン若い女性と一緒にライブをする時必ず歌う曲なのだという。共におじさんと少女を題材にした曲だ。確かに筋肉少女帯や特撮の曲、他にも昔書いていた小説等でもこの題材は多く扱っている。物語が生まれやすいのだろう。
 その二曲を歌い終わると急にオーケンのテンションが激変。観客を煽って煽って始まったのは
「日本を印度に!?」
「しってしまえ〜!」
 の合いの手でおなじみ「日本印度化計画」。ここでなんといつもは起こらない手拍子が。二番でそれが一度途切れたり、三番の「カレーはなんて辛いんだー!」を観客に奪われてちょっとしょげる、等一々笑いに包まれながら歌いきった。
 そして六曲目。
 「スターマリーは人の生と死を歌うグループということで、少女が死に直面する曲を歌います」
 といって始まったのは「ノゾミ・カナエ・タマエ」。筋少一ダークと本人も称する曲である。
 先程と打って変わり静まり返って耳を傾ける会場。ここが筋肉少女帯、そして大槻ケンヂの面白さなのだ。「日本印度化計画」のようにネタ全振りの面白おかしい曲(一応プロパガンダだったりするらしい)もあれば「ノゾミ・カナエ・タマエ」のように人の心の闇をそのままえぐりだしたような曲も歌うその二面性。アイドルという明るいイメージの立場でありながら生と死という暗いテーマを歌うSTARMARIEとどこか似ている、と僕は思ったりするのだ。
 曲を歌い切ると「どうも、ありがとうございました」と一礼しオーケンはステージを去った。トークがいつも長引き、曲をあまりやれないのが良くも悪くもオーケンって感じである。
 その後五分くらい休憩を挟んで今度はスタマリのターン。妖しい雰囲気のモノローグから幕を開ける。
「さあ、一緒に開こう。STARMARIE


 そして現れたスタマリメンバーとsun-go。始まった一曲目は「悪魔、はじめます」。こちらは現在発売中の最新アルバム、「FantasyWorldⅣ」のリード曲である。曲の最後に「ではファンタジーワールドフォー、はじめます」とあるのはこの曲がアルバム冒頭の曲だから。こういうメタい作詞もあったりするのである。初っ端からアップテンポなナンバーにマリスト諸氏の熱い合いの手がかかる。今日はいつもより気合が入っているようにも聞こえる。まあ僕もだが。
 二曲目に披露されたのは「屋上から見える銀河、君も見た景色」。これまた「飛び降り自殺」をテーマにした悲しいナンバーである。冒頭と三番の始まる前にメンバーの一人がまるで高い所から落ちるような振りをするところがあるのだが、初めと後とでその振りをしていないメンバーの動きが違う所がポイント。ちなみにファン人気投票一位の曲である。やっぱり皆暗い曲が好きなのね。
 その後少しの暗転の後、三曲目は「君は死が与えられ、僕は生きろと命じられた」。こちらは現在絶賛キャンペーン中の三ヶ月連続シングルリリースの第二段、「キミとヒトリ月夜に歌う」のカップリング曲である。
 そして四曲目は「ドントルッキンフォーミー」。「僕と少女霊媒師たち」のカップリング曲である。今バージョン3くらいだろうか。披露する度にユニゾンを加えるなどリアレンジされていった曲である。今回シングルを買った方も多いかと思うので是非聞いていただきたい。
 そしてお次はスタマリ一ダークと名高い「サーカスを殺したのは誰だ」。これぞスタマリって感じである。この曲もそうだが今日披露された曲はほとんどyoutubeで聞けるので気になった方は是非検索してほしい。この曲に限ってはじっくり歌詞を読み込んで謎解きをすることを勧める。
 七曲目はsun-go姉貴大暴れの「ママは天才ギタリスト」。途中MCで話していたSHOW-YAと共演するきっかけとなった曲である。激しいロックナンバーでありながら母子の絆が描かれているのがまた面白い。
 お次はラスト。「姫は乱気流☆御一行様」こちらはアニメ「鬼斬」のタイアップ曲である。スタマリ一ダンスが激しい曲である(多分)。しかしそれでいてノリがよく覚えやすいダンスも多いところが特徴。最後にSTARMARIEの明るい、ライトな面を見せて終わる、というオーケンのセトリとは逆の趣向でスタマリのパートは終了。


 軽くメンバー五人とsun-goで感想を言い合った後、オーケンが「世界に打って出たらいいんだよ!スタマリは!」と言いながら再登場。軽くトークした後三組でセッション。曲はアニメ、「さよなら絶望先生」から生まれたユニット、「大槻ケンヂと絶望少女達」の曲、「おやすみ-END-」。個人的に大好きな曲である。
 絶望少女パート(確か原曲は斉藤千和のソロ)を五人がリレーで繋ぎ、ラストを中根もにゃちゃんが歌い切ると場内に静かな拍手がおこった。
 そしてラストのラストは「踊るダメ人間」。サビで腕をクロスさせジャンプする通称「ダメジャンプ」をスタマリの五人、そしてマリスト、おでん全員が飛んだ。もにゃちゃんが一人超ヘドバンしていたのが印象的だった。多分普通に好きなんだろうなぁ。
 「ダメ!それでも生きていかざるをえない!!」とオーケンがさけんでラストのラストの曲も終了。本当に名残惜しい。オーケン、sun-goがステージを去り、最後にスタマリメンバー五人から改めて今日来てくれたことに感謝を述べるなどして本当に今日のライブは終了となった。


まとめ
 本当に本当にいいライブだった。僕の生涯ベストにあげてもいいくらいである。本当にいいライブだった。願わくばまたオーケンと一緒にライブをやってほしいと思う。その為にも益々STARMARIEが成長することを願って筆を置かせてもらう。スタマリメンバー、関係者、オーケン、sun-goさん、本当にありがとう。
 

1/19 STARMARIE「Rise to Stardam」ツアーファイナル横浜公演の感想というか雑記

 銀杏BOYZに続き新年二発目のライブはおなじみSTARMARIEである。昨年末、11月頃に同「Rise to Stardam」ツアーの仙台公演に参加したのだが、実はそれがツアーの初日で、今回は同公演のツアーファイナルなのである。スケジュール上たまたまこうなってしまったのだが、なんというかこう、運命を感じざるを得ない。
 会場の横浜O-SITEは複合型ショッピングモール内の三階に存在する。直前までホテルでグータラしていたら遅刻ギリギリになってしまっていた。普通にタクシー使っちゃったよ。
 さて、本ツアー、僕は先刻書いた通りツアー初日のみ参加していたのだが、その後の名古屋公演にてメンバーの一人、高森志乃(しのはむ)が足を怪我するアクシデントがあったそうで、ダンスができないままに本ツアーを回ったのだという。
 それを乗り越えてのツアーファイナル。しかと見届けようと思う。
 セトリとかは初日とあまり変わってないので割愛。多分ツイッターとかに上がってるので各自参照のこと。今回は僕の感想を中心に書いていくので、ここでは「名もなき星のマイホーム」の後奏のとき、のんちゃんが振りを間違えて一人で爆笑していたのを記すに留める。(可愛い)
 
 まずしのはむの足の怪我について。どうやら足の怪我後は椅子に座って歌に専念しつつ手振り首振り腰振りでダンスを行っていたらしい。腰は違うか。ともかく椅子に座った状態という制限がある中、彼女なりにステージに立ち(座り?)続ける為にどうすればいいか考えたのだと思う。結果、それが彼女の表現力の部分を大いに開花させる結果となった。ステージの後半、椅子から立ち上がり、五人揃ってのダンスを披露した彼女のダンスは約二ヶ月のブランクを感じさせないどころか、二ヶ月間ツアーで磨き上げられた他のメンバーにも引けをとらない出来だった。このツアーファイナルが偶然にもしのはむの凱旋公演であることにこれまた運命を感じざるをえない。
 僕は三ヶ月間実際にツアーを追った訳でなく、せいぜいツイッターのタイムラインを追うくらいしかしてこなかった訳だが、それでも感動も一入である。すごい。やばい。エモい。ブラボー。
 語彙が足りない。


 それと新曲。「キミとヒトリ月夜に歌う」は既にyoutubeにて公開されているのでもちろん視聴済であるが、もう一つの新曲「君は死が与えられ僕は生きろと命じられた」は今日初聞きの曲であった。この曲、まずタイトルがいい。これだけでご飯三杯はいける。
 愛しあう二人の中が死をもって分かたれた時、生き残ったものは死んだものの分まで生きるべき、というのは当たり前のことだ。しかし、当の本人にしてみれば、生きているのはそういった倫理観、道徳観に命じられているからに過ぎなかったりする。この辺カップリング曲の「キミとヒトリ〜」の「孤独をわけてくれないか」という歌詞にも繋がる気がする。それとタイトルを聞いただけでは想像できないBPMの速さの曲だった。必聴。超いい曲である。


 最後に軽くまとめ。この三ヶ月間のツアー、初日とファイナルしか参加できなかった訳だが、いやしかしそれ故に彼女達の著しい成長をよりはっきりと認識することができた。最後のMCでも言っていたが、STARMARIEはまだまだ伸びしろのあるグループだ。これからもその成長を見守っていきたいと思う。という訳で明日は渋谷にてSTARMARIEオーケンとのツーマンライブである。
 クッッッッッッッソ楽しみである。